猫から見たK-POP

ガールグループ中心に思ったこと書いてます。

Kpopアイドルと例のバッチについて。

今回のバッチの一件、日本側のファンの方々の反応を見てみると、賛否を明らかにしている人よりも、とにかく戸惑いを感じている人のほうがずっと多いように思いました。

番組を通して伝わる彼女の姿は、日本語を学んで懸命にコミュニケーションを取ろうとしたり、日本側参加者と励ましあって共にサバイバルの葛藤を乗り越えようとするとても真摯なものです。

それがどうしていきなり、練習着への小さなバッジの着用という、ささやかでありながらも政治的と見なされうる行為を選んだのか。その行動と、可愛らしいアイドルとのイメージが一致しないことから来る混乱が、戸惑いの理由なのかもしれません。

まず最初にお断りとして、今回の彼女の行動は韓国内の視聴者の支持を得るための計算高い行為だとか、あるいは逆に、ただ可愛いからつけただけでバッチの持つ意味を知らなかったんだというような意見については、結局どちらも単に彼女を馬鹿にしているだけだと感じるので、個人的に賛成できないということは申し上げておきたいです。

 

バッチが作られた原因とされる、日韓両国に関わる痛ましい歴史について、現状とても複雑で入り組んだ政治問題となっているのは周知の事実です。そして国家と国家という、誰しもそれなりの繋がりを感じる大きな共同体同士の衝突という側面もあることから、そこには不穏な空気が満ちていて、とてもアイドルの持つユニバーサルな世界観とは相容れないように思えます。そしてこの事に関わる言動は一見して全て政治的であるようにも見える。

しかし何より忘れてはならないと思うのは、そもそもこの問題の中心にあるのは戦時下の苦難を生きた人々の悲劇だということです。

70年以上前の時代、今回の番組参加者の皆さんと同じような年齢の時に過酷な運命に見舞われ、さらには韓国独立後も社会の中で忘れ去られた存在として過去の傷を隠しながら生きなければならず、老境を迎えた90年代に入ってようやく「再発見」された、そんな女性達の生涯に対して思いを馳せることが、果たして政治的な行為といえるのかどうか。そこにあるのはまず何よりも他者の不幸に胸を痛める普遍的な人間としての感情ではないでしょうか。

今回のケースだけでなく、普段から日本のファンと接する機会の多い韓国のアイドル達が、一方では同じような意味を持つシャツやスマホケースなどを普通に身に着けているという事実は、このことを他国に対する非難をこめた政治的行為というより、そうした自然な感情の発露として捉えていることの表れだと、私は思います。

今回の一件、「日本側に対する配慮に欠けているのでは」という意見も見られますが、バッジに批判的意味があると捉えるのでなく、上記のように失われた女性の人権と尊厳に対する想いと考えれば、日本側参加者がそもそも配慮されるべき立場にあるのか、ということになります。つまりバッチが普遍的な価値を表していると考えれば、国と国の対立という構図からは離れて、そこに残るのはある悲劇をひとりの人間としてどう見るかという個人の態度の問題ではないでしょうか。

 

正直、今回のニュースを最初に耳にした時は驚きました。予想される反響を考えれば、このタイミング・この状況で敢えて取るべき行動だろうかとも感じ、「練習着にバッチとか単純に危なくない?」とも思いました。しかし起こってしまった事は仕方ない。その後に考えたことは上の通りです。

聞けばプデュ2の時も有名な参加者が同じような意味のトレーナーを身につけていたとのこと。おそらくアイドルの人達は自身に集まるカメラの影響力を自覚した上で、それを善意から活用できないかと考えて、こうした行動に出ているのでしょう。例え若くても有名人としての自身の立場から社会のために出来ることを考えるところには、慈善活動に熱心な人の多い韓国芸能界の良い影響を感じました。

そしてプロデュース48に関して言えば、今回のように簡単にきまずくなる二つの国の間に、この番組から生まれる何かが新鮮な風を送り込むことになりはしないかなどと妄想をしながら、残り少なくなった放送を追っかけていきたいと思っています。