猫から見たK-POP

ガールグループ中心に思ったこと書いてます。

とても複雑で特別なもの、KPop

日本のファンに向かって素晴らしい舞台を披露してくれて、懸命に日本語で呼びかけてくれて、キラキラした笑顔やハートを送ってくれる。

そんな幸せな時間と空間を作り出すKpopアイドルを眩しく眺めながら、普段から思うことはあった。

こっちは日本人で向こうは韓国人。70年以上前から続く気まずい関係を未だに維持する国の人間同士、そういう過去と現在をどう考えているのかなと。

お隣のアイドルが1人の人間として日本という存在を本当のところはどう思っているのかという疑問、おそらくKPopファンなら誰しも一度は頭に浮かべた事があると思う。

でもこれは禁忌に属する話題であることをみんな予感してる。

アイドルとファンが作り上げた幻想を簡単に崩壊させる恐れがある。恋愛スキャンダルのほうがまだ良いと思える。

双方ともにそのことを理解してる。だから見ないふりをするか、音楽と歴史は別、みたいな逃げ方をするしかない。

それは仲睦まじく向かい合ったKPopアイドルと日本のファンの傍らに置かれたパンドラの箱のようなもので、皆が気付いているけど絶対に触れてはならないものとされてる。

そしてたまに間違えて蹴っ飛ばしてしまう人が出てきて、今回のような騒ぎになる。

でもそれは仕方がない。こんなに身近にある違和感を見て見ぬ振りするほうが無理というもの。

今回BTSとファンはそれにつまづいた。お互いのために沈黙を守るのには限界がある。

でも事態はあまりに複雑だ。

 

今回のような騒動が起こるたびに、日本のKPopファンに冷や水を浴びせる言葉が表れる。

それは、韓国のアイドルはこうした複雑さを割り切って単にビジネスとして日本にお金を稼ぎに来ているだけだという意見。その言葉には、それに乗せられている日本のファンの単純さをあざ笑うようなニュアンスも含まれる。

しかしアイドルビジネスはある種の幻想を共有して互いを支えあう高度な遊びのようなもの。双方に素養と感覚を要求する特別な場が、ビジネスとしてのアイドルの成立には必要になっている。

そして日韓両国においてはその複雑な文法が翻訳の必要なく共有されている。

日本と韓国のように地下化するほどに多くのアイドルを抱え、天井に届くほどCDを積み上げてしまうファンが多く存在する国はまだ他に無い。この2国は世界のアイドルビジネスを先導しつつ、同時に世界から浮いてる。

私達は間違いなくビジネスを超えた特別な感覚を共有している。いや共通の感性を持っているからこそ海を越えたアイドルビジネスが成立している。

そうした前提を持ちながら、ステージを中心とした世界ででアイドルとファンは様々な感情のやり取りを行う。大勢の人々が関わり合うその関係の中には様々な意思と感情が渦巻いていて、その中で経済的な動機が一定の役割を果たしているのは確かだ。

しかし色々な人々が感情を込めて織り成す多様な風景を、単純に経済的な機能であるかのようにみなした上で「あれはビジネスだから」と表現するのはあまりに短絡的に感じられる。

ビジネスという言葉を通して現実の複雑な人間関係を単純化して捉えるのは人間そのものを馬鹿にしていると思うし、そうした姿勢がKPopの領域に向けられるとき、それは例の見飽きた隣国差別の別パターンでしかないと思う。

 

今回の騒動の発端になったのは、そうした複雑さの中心・日韓の過去だった。

個人的にはあのシャツのデザインについて、日本人として抗議の主張を曲げるべきところは何ひとつ無いと思っている。

しかし一方で日本の被害的側面を素直に受けいれるわけにはいかない韓国側の心情も分かる。

今回の件で言えば、そうした韓国国内の事情と日本側への釈明の必要性との板ばさみになって動けないBTSサイドの窮状もなんとなく想像できる。ビッグヒットは日韓の間に走る溝にきれいにはまってしまったように見える。

歴史とは現在と関わる部分においてのみ記憶されるという。

つまり今この瞬間の現実とかかわり合っているからこそ、過去の記憶が歴史として特別に呼び起こされているのであって、それは多くの日本人がイメージするだろうテストのための退屈な暗記対象としての「歴史」とは意味するところがまるで違う。

その加害の歴史を直視しようとしない隣国・日本の姿は、攻め込まれた歴史を持つ韓国の人々にとっては単純な好悪というよりも不信と不安の対象になっていると思う

ひょっとしたらまた同じ事を繰り返すのではないかという懸念は、日本人なら笑い飛ばすかもしれないが、向こうの人は多分違う。

韓国の人達にとっては歴史が現実の問題として存在している。その言葉が持つ重みと緊張感は日本人が感じているものとは相当異なるものだと思われる。

だから韓国の若い人たち(その中には当然アイドルも含まれる)が、しばしば歴史に関する言葉を語るのは特別に愛国的だからとか、意識が高いとかではなく、現実の肌感覚としての表れだと思っている。

同じ時代を生きる日本人として、そうした隣国からの視線を誤魔化したり無視するのではなく、正面から応えようとする姿勢を示すことくらいはできるのではないかと、個人的には思う。

そうして対話の準備が整ったとき、初めてこちらの意見に耳を傾けてもらうことが可能になると思う。

ちなみに朝鮮の人々はあの爆弾で日本人に次ぐ2万人以上という数の犠牲者を出しているという。戦争の被害国でありながら核の犠牲にもなった歴史も持つ。

やはり話は複雑だ。

 

しかし実のところ私はKPopが持つこの複雑さが嫌いじゃない。

というか、いつからかこの複雑さこそがKPopアイドルに独特の色合いと深みを加えていると感じるようになった。

私はこのブログで散々KPopが表現する舞台上でのパフォーマンスを褒めちぎって来たけれど、KPopのKが韓国を意味するところから来る意義も相当に大きい。韓国で生まれ育ち韓国で生きる人達が表現する芸術だからこその意味は確実に存在する。

だから、音楽と歴史・政治は別にして純粋に音楽だけ楽しもう、みたいな態度は彼・彼女達の人間としてのこれまで、そして現在をまるごと無視してしまうようで私は賛成出来ない。

けれどもKが韓国であることから来る緊張関係は、KPopアイドルと日本のファンの間にも微妙な空気を流し込んでいる。この記事の序盤で私はそれをパンドラの箱と表現した。

その喩えを再び使うなら、その箱は恐ろしくて厄介ではあるけれど、実はそこに施された模様の妖しく危険な彩りに惹かれる気持ちがあるのを否定できない。

その存在こそが、KPopアイドルと日本のファンの関係が陳腐でありきたりなものに陥ることを拒否していると感じる。

両者は愛の言葉やハートなんかを送りあいながらも、ある重大な事柄に関して対立する視点・考えを持っているかもしれないことを互いに気付きながら隠している。

双方が行き着く先の分からない予測不可能な展開があるかもと思いつつ、そこから目を背けて必死に美しい幻想を協力して作り上げてる。

これはサスペンスだ。ある種の共犯だ。

そしてKPopにあってはどんなに可愛らしいアイドルグループであっても同じ不穏さを持ち、独特の陰影を帯びることから逃れられない。

日本にとってのKPopはどうあっても複雑で特別なものにならざるを得ない。それは歴史から来る宿命のようなもの。

それはアイドルとファンのナイーブなラストを拒絶する。最後に辿り着くのは破局なのか、ぎこちない和解なのか、それとも別の何かなのか。私達の複雑な関係は、未だその結末を知らない。

 

今までは皆で一生懸命力を合わせて箱にフタをして、何事もなかったようにやり過ごしてきた。今回もたぶんそうなる。これまでの様々な先輩アイドルグループもファンもそういう風にうまくやり過ごしてきた。

それが現実的に必要な態度だということは分かる。でも同時にそれは一番大事な何かを諦めてしまったみたいで、なんだかとても空しい。

私は、ここがアイドルの世界だからこそ別の可能性を信じたい。こういう姿勢はとても妄想的かつ、馬鹿げているほどに能天気かも知れない。

しかしアイドルの世界で幻想を信じずに何を信じるというのだろう。

多くの時間と準備と覚悟が必要だと思う。妥協も譲歩も厳しい応酬もあるかもしれない。決してハッピーエンドが約束されているわけでもない。

その先にどんな光景が広がるのか予想できないことは恐ろしい。しかしそれでも、いつかは双方が勇気を持って箱に手を伸ばす日が来て欲しい。

そしてその時、パンドラの箱の底に最後に残るものは希望であってほしいとも思う。