「君は私のヴィオレッタ」というサビの歌詞の意味がよく分からなくて。
なので色々と考えて一応結論ぽいものに辿り着いた、という内容の記事です。
「Violeta」のリリース当初は特に思うところは無かったんですが、段々と気になる所が増えてきて、結局4月1日のカムバから2ヵ月近くも経った後の記事という完全に間の抜けたタイミングになってしまいました。
「君は私のヴィオレッタ」と言われても
IZ*ONEの「Violeta」。
この曲のテーマについてはリリースの時に各種メディアの間で一斉に似たような文面が紹介されていたので、これが公式的な説明・解説なんだと思ってます。
タイトル曲「ビオレッタ」は童話「幸せな王子」のストーリー部分に着目して誕生した。メンバーが愛して応援する対象を紫の「ビオレッタ」、幸せを象徴する「サファイア」、それをスミレに伝達する「つばめ」を会津ウォンとして再解釈し、すべての人々に情熱いっぱいの応援を伝える。
その説明どおり、歌詞の中で表現される「私」はツバメとしてのアイズワンであり、「君」はビオレッタつまりスミレだと思いながら初めのうちは曲を聞いていました。
私は洋楽でもKPopでもとりあえず聞き流して楽しんでしまうタイプなので、今回も公式の説明を何となく頭に入れながら、アイズワンがなんか応援してくれてる曲なんだろうなぁ、というぼんやりした感覚で「Violeta」を楽しんでた。
でもある時、「ノ・ナエ・ヴィオレッタ」のサビに関してふと疑問を感じた。
「君は私のスミレ」ってどういう意味だろう。
改めて考えてみると、応援する対象としてのスミレなどと説明されてもさっぱり意味が分からない。そもそもなんでスミレが応援されなくてはならないのか、なんで聴き手がスミレでなくてはならないのか。
そういえば今回の曲には「幸福な王子」という童話の下敷きがあるという事を思い出し、それを読めば謎が解けるだろうとネットでいくつかのバージョンを読んで見る事にしました。全文へのリンクは後の方に貼ってます。
ヴィオレッタ、サファイアそしてツバメ。この三つのキーワードが「幸福な王子」から選ばれた要素としてIZ*ONE「ヴィオレッタ」の中で役割を与えられているのは公式説明どおり。
そしてウィキのあらすじでは省略されていますが、元の童話の中でこの三つの言葉が同時に現れるシーンは一つだけ。
それはサファイアを咥えたツバメが、飢えと寒さで気を失いかけている若い劇作家の元を訪れる場面。男が突っ伏した机には原稿の山の他にコップが置いてあり、そこには枯れたスミレの束が挿されている。
ツバメはそのスミレの上にサファイアを置いて去る。少し遅れて異変に気付いた男はそれをファンからの贈り物だと勘違いし、喜ぶ。
枯れたスミレの束に添えられた輝くサファイアの対照が鮮やかな色彩的効果を呼ぶ場面です。
おそらく「Violeta」が着想を得た「幸福な王子」におけるストーリー部分というのはここのことと思われます。
そこで思うのが、このシーンを題材にとりながら「君は私のヴィオレッタ」と歌う意味ってなんだろうなということ。
童話全体の中でみても、スミレは大きな意味を持つアイテムではありません。唯一この屋根裏部屋の場面でコップに挿されているという描写があるだけです。
それをなぜかアイズワンは大々的にタイトル曲のテーマに据え、聴き手を、ひょっとしたらウィズワンをそれに喩えた。
なんで?
本当にアイズワン=ツバメ?
ヴィオレッタ(スミレ)=君という構図の意味と、他のキーワードの曲における役割を知ろうと歌詞を読み始めた私は、やがてアイズワン=ツバメだという公式説明までも疑い始めました。
確かに最初は、振り付けで披露されるツバメダンスなどから歌詞におけるアイズワンの位置が物語中でいうところのツバメなんだと思っていました。
宝石を届ける事で困っている人を助けるツバメという物語中の役割が、「ヴィオレッタ」で説明されているアイズワンが皆を応援するというテーマと一致しているんだと。何よりそのようなアナウンスが公式にリリースされてる。
しかしそう考えると歌詞の意味が分からない。
羽ばたきとかさえずりみたいな、ツバメや鳥の存在を思わせる歌詞は無いし、幸福を届けるみたいな表現もない。むしろアイズワンである「私」は「君」のごく間近から動かず、ずっと囁きかけてくるイメージでした。もしツバメなら爽やかにサッときてサッと飛び去るみたいな感じになるはず。
こうなるともはやツバメ=アイズワンという公式の説明すら怪しい。
今のところ唯一確かなのは、「君は私のヴィオレッタ」というコーラスで繰り返される歌詞から、聴き手がアイズワンにとってのヴィオレッタ(スミレ)だという構図です。これは同じく歌詞の中で「あなたの香り」とか「匂い」みたいな表現が複数表れることからも明らかです。
となるとアイズワンはこの「Violeta」の世界でどこに存在しているのか。
「Violeta」が物語の屋根裏部屋のシーンからモチーフにした三つの要素であと残っているのは、ツバメが届けた宝石であるサファイアだけ。
このサファイアは公式には幸せを象徴すると説明されています。
ですが、これまた実際の歌詞に照らしてみるとアイズワン=ツバメ並みに意味が読み取れなかった。でも歌詞を眺めているうちに別の構図が浮かんできます。
それはアイズワン=サファイアと見なすこと。
「Violeta」の歌詞は、むしろアイズワンをサファイアとしてイメージしているのではないかと思うようになりました。つまり屋根裏部屋におけるサファイアとスミレの関係を、IZ*ONEと聴き手の関係として設定している。
サファイアの不穏な輝き
何故かといえば、まず原作の童話からしてスミレとサファイアの関係には一瞬のシーンでありながら明らかに特別な結びつきが施されています。
というのも屋根裏部屋に飛び込んだツバメは、サファイアを机の上や男の手の中ではなく、他でもないスミレの上に置く。
コップに挿された枯れたスミレの束は男のうらぶれた現状や、潰えた夢のようなものを物悲しく表現しているようにも見え、そこへ贈り物としてのサファイアの青い輝きを重ねることにはとても象徴的な意味が込められているように感じました。
つまり「ヴィオレッタ」に表現される応援というテーマは、このシーンを根拠にしている。枯れたスミレを応援されるべき対象として、そこに幸福を象徴するサファイアを重ねる、というのは最初に挙げた公式説明とも一致する。
しかし一方で、サファイアとスミレの関係はどうもそれだけでは終わらない。
歌詞の中には「香りを感じる」とか「あなたの眼差し」など、「私」と「君」に関する距離感の近さを思わせる言葉が盛り込んである。
「ある瞬間私へ静かに染み込んで 同じ夢を見るようになるから」と歌われるときに想像される「私」と「君」の位置関係は、その最も顕著な例だと思います。
「君の色を込めて照らしてあげる。私みたいに誰よりも輝けるように」という歌詞や「私の中であなたを照らす。永遠に君を染める」という部分は、童話のなかでは枯れていたスミレの花に、サファイアが自らの輝きと色を移して染め上げようとするかのような意味を感じます。
このように「Violeta」の中から立ち上がってくる「私」と「君」の関係は、童話の中でのサファイアとスミレの距離感までも踏まえている。
つまり私=IZ*ONE=サファイアがスミレに語りかけているという形なんだと思います。
以上のことを踏まえて「君は私のヴィオレッタ」の意味を考えてみると、それは童話の中で重なるサファイアとスミレの関係を、寄り添う二人と見立てれば明らかになる。
この歌詞の意味は、愛の言葉なんだと思います。
でもこの曲はただのラブソングじゃない。
例えば上に抜粋した歌詞を見て、その端々から意外な不穏さを感じ取った人もいるのではないでしょうか。
「私の中であなたを照らす。永遠に君を染める」の部分に代表されるように、「君」であるスミレを「私」であるサファイアの体の中に映して輝くという光景からは、なにか一方的に相手と自分を同化させるような危うい愛の姿を想像させる。
各種サイトで宣伝されたテーマである「応援」という明るく前向きな言葉では明らかに捉えきれない、愛を巡る陰影がIZ*ONE「Violeta」にはある。
枯れたスミレに陶然としながら身を預けるサファイアの姿を想像し、このような解釈を導くのには一応の根拠があります。
「幸福な王子」
それは、「Violeta」が下敷きにしたという童話「幸福の王子」が、あのオスカー・ワイルド作であるという事実です。
私は文学に詳しいような人間ではないですが、「サロメ」(愛する者の生首を抱え、口づけをする)や「ナイチンゲールとバラ」(人間に恋した鳥が、彼のために自らの心臓の血と引き換えにバラを赤く染める)で表現されたワイルド風の「愛と呼ばれるもの」についての極限的な表現は、童話である「幸福の王子」にも見られ、その影響が「ヴィオレッタ」にも流れ込んでいると思います。
上で取り出した歌詞からだけでも、IZ*ONEが演じているかもしれないサファイアが、上品かつ冷静に輝いているだけではないことは伝わるはず。
私を信じて、私に委ねてと歌う歌詞には、やはり作詞家が「幸福な王子」を通して呼び込んだワイルドの影響がある。
というわけで最後に、私が「Violeta」は強めの愛を歌っていると思う根拠である「幸福な王子」についての解釈を書いておきたいと思います。
全文訳が以下で読めます。
オスカー・ワイルド 石波杏訳 幸福の王子 The Happy Prince
生前は宮殿で何不自由ない生活を送っていたが、いまは町を見渡す銅像として存在する運命にある王子と、もともとは自己中心的な性格だったけれど、王子の優しさに触れることでやがて高潔な精神を持つに至るツバメ。
王子(銅像)とツバメの2人は互いの長所を生かして貧しさに苦しむ人々へ幸福を分け与え続ける。しかし冬が迫るにつれ、人々に宝飾品を与え続けた王子の姿はみすぼらしくなり、越冬の機会を逃したツバメは力を失っていく。
子供向けの絵本では、ツバメが最後に王子にキスをして息絶え、それを悲しんだ王子の鉛の心臓が二つに割れて世を去ったとされています。
劇的なクライマックスであるこの場面は鮮烈な印象を残すだけでなく「幸福な王子」の存在意義を全て凝縮させたようなシーンだと思っています。おそらく作者はここを書きたいがためにこの童話を書いたと思うくらいに、2人の関係が決定的な一点を迎える場面です。
しかし同時に、ここは解釈に違いの生まれる場所でもある。
絵本版では「王子がツバメの死を悲しんだから心臓が砕けた」と描写される一方で、それは子供向けに夢を残したもので、原文どおり寒かったから鉛の心臓が割れただけの救いのない話なのだという見解もあります。
確かに元々の文章では王子の鉛の心臓が砕けた後で、「その日はとても寒い日だった」という語りの文が続くだけ。何の余韻も残さない、荒涼とした印象を残してこのシーンは終わる。
何が王子の心臓を砕いたのか
私は王子の鉛の心臓を砕いたのは悲しみでも寒さでもないと思ってます。
まず何より、冬が寒いくらいで鉛が割れるとは思えない。それに、これまでの冬はずっと平気だったのになんで今になって、という疑問も残る。
そしてツバメが亡骸となって足元に落ちた次の瞬間に鉛の心臓が砕けたという事の順序は、偶然で片付けるにはあまりに劇的すぎる。ここにはなにか理由があると考えるのが自然です。
では悲しみのせいかというと、それも表現としては不十分だと思う。
私が気になったのは「鉛の心臓が二つに割れた」という表現から感じる突如とした激しさです。ここは童話全体のトーンから浮き上がるくらいに劇的で急激な表現だと思いました。
もし悲しいだけなら涙でも流せばいいのに、王子の鉛の心臓は音を立てて割れた。これはなにか別の心理的衝撃を受けたことを暗示している。
その衝撃とは、ひとつには後悔だったと思います。
この王子、確かに童話を通して優しさと自己犠牲の権化のように描かれますが、しかし一方では、段々と物腰に王族としての傲慢さが現れてくる点も指摘されています。最初のうちは「~してくれるかい?」と丁寧に依頼していたものが、最後の方では「~しなさい」と完全に命令口調。
ちなみにそんな王子を見放すことなく従うツバメの姿が、きっと初めの頃の彼だったら迷い無く飛び去っただろうと思わせて、愛と犠牲を覚えた者の変化を明確に示していて印象的な要素でもあります。
王子がツバメに対して最後に唇へのキスを許す姿も、「お前を愛しているから」という言葉を使いながら、しかしその姿はまるで王が臣下に対し許可を与えるような雰囲気があります。
きっと彼は自らの犠牲で貧しい人々を助けたという悲壮かつ英雄的な満足感に酔っていたのだと思います。自身の仕事ぶりと高潔さに満足を覚えながら、あとはエジプトへと旅立つツバメを見送る。 それで全ては終わるはずだった。
しかし足元での異変に気付いた時、彼は自分が見落としていたものの重大さにようやく気が付いた。
自分が人々のために行っていると思っていた善行は、途中からはツバメの自己犠牲に支えられていた独善に変化していたのではないか。
しかも自分が犠牲にしていたのはルビーやサファイアに金箔といった文字通り表面的なものだった一方で、しかしツバメが差し出していたのは他でもない自身の命。
その覚悟の差を思い知ったとき、ひょっとしたら王子は自身のこれまでの行為を独善どころか、偽善だと疑ったかもしれない。
更にもうひとつの衝撃が、ツバメにそこまでの覚悟を抱かせた理由が他でもない、自分に対する深い愛情だったことに気付いたことだったと思います。
そして「さようなら愛する王子」という言葉に込められた覚悟と、ついさっき自分がいかにも王族の口ぶりで語った「お前を愛している」という儀礼的な言葉との落差にも、自身の迂闊さを見たとしても不思議はない。
ツバメの死は王子に自分自身の姿を見つめなおす事を要求し、内心をえぐるような衝撃の連鎖を与えた。でもこれだけならまだ鉛の心臓は凹む程度だったかもしれない。
とどめの一撃となったのは、自分もまた本当はツバメを愛していたことを、死を賭したツバメの告白によって気付かされたことだったと、私は想像しています。
長くなりましたが、童話本編を通して表現された王子とツバメのこうした愛を巡る関係の強さが、「Violeta」におけるスミレとサファイアとの結びつきの強さとの相似形になっている、というのが私のおおまかな予想です。
結論のようなもの
「幸福な王子」という童話の中のある一場面。そこに登場するサファイアと枯れたスミレという小道具のささやかな関係性に注目して、そこへ童話全体を通した中心的テーマであるオスカー・ワイルド流の愛を投影した結果がIZ*ONE「Violeta」だというのが私の最終的な見立てです。
メディアを通してアナウンスされた、アイズワンが聴衆を応援するのがテーマだという説明は決して嘘ではないし、ステージパフォーマンスから受け取れる印象はむしろこちらかもしれない。
しかし「Violeta」の歌詞から始まる世界観に込められているのは、それだけではなかったと思います。
いまMVを見てみると、メンバーの表情や眼差しには既にそのような不穏な情熱のようなものが感じられ、単にカメラに向かってカッコつけてたわけではない気がします。
そして最後にふと思ったのが、IZ*ONE=ツバメという公式的な説明。
私は最初のほうで歌詞の内容にそぐわないという理由でこの構図を否定していたのですが、枯れたスミレにサファイアが寄り添うような「Violeta」の歌詞風景は、まるで銅像という命無き存在に愛の言葉を囁いて息絶えたツバメの姿と重なるようにも見えて、もしかしてこっちのツバメのイメージでIZ*ONEを喩えていたのかも、などと今では想像しています。