あの時、PRODUCE48の最終回。壇上に残った参加者を見ながら一つの懸念を感じていた。
KPop寄りのファンである私は、シーズン3最大の特徴だった日韓合同というアイデアの具体的な現れ方によっては、つまり最終的に選ばれる日本人メンバーの顔ぶれと人数次第では、完成するグループに対してわだかまりを感じてしまい、素直に応援出来なくなるかもしれないことを心配していた。
そんな自分の理想としては、韓国に拠点を置くKPopグループが誕生するという前提を考えて、人数は3名が良いと勝手に想像していた。
というのも、12名で予定されるグループで過半数を占めるはずの韓国人とのバランスを考えると4以上では多く、かといって3未満では少なすぎて日韓合同を名乗るのが不自然に感じるという、なんとなくの予想だった。
そして具体的なメンバーは、おそらく誰が見ても当確だったはずの宮脇&矢吹両名を除いた一枠が誰になるかという展開が理想的で、出来ればその1名は下尾&本田&高橋の3名の中から選ばれるべきだと思っていた。
これは他の日本人参加者では全体的なバランスを考えた時に何かがおかしいという、すごく感覚的な理由でしかなかったけれど。
目次
理想が真実
結果は周知のとおり、宮脇&矢吹そして本田さんの選出。
顔ぶれも、3という数字も願っていた通りだった。そして韓国人メンバーを含め最終的に決まった12人も、ほぼ完璧なバランスに思えた。
正確に言えばこの時、投票権を持つ韓国の視聴者は見る目があったと安堵したのと同時に、もしかしたら、とも思った。
これは適当な人気投票で偶然に集まるメンバーではないと一瞬思いはしたが、無意識の片隅に追いやった。「こういうこと」は、この華やかな世界では珍しくないことだと自分なりに了解していた。
それでも全員が完全に自分の希望通りというわけではなかったけれど、正式にデビューして実際に活動を始めたIZONEを見るうち、その小さな違和感もやがて消えていった。
今にして思えば、これがプロの眼というものだった。
もし視聴者が各々勝手に行う投票にすべてを委ねていたら、今日に至るIZONEの成功があったとは思わない。PRODUCEという大型オーディション番組での人気だけに頼るのではない、現実のKPopグループとしてシーンの中で戦っていける人選が必要だった。
アイドルの世界における真実という言葉は、出来るだけ多くの人が納得できる理想に近い意味を持ち、それは一般的な使われ方とは少し違うものだと、個人的には思っている。
だけど、やはりそうは考えない人もいた。
舞台の上でもそこを離れた場所でも、カメラの前で特定の振る舞いを期待されるアイドルの世界が、ある程度の虚飾によって成り立っている場所だという事は今更言うまでもないはず。
つまり、ここではある種の嘘が最初から許容されている。
そして映画やドラマほどには虚実の明確でない、この複雑な世界が大勢の人を引き付けている理由。
それはアイドル個人の魅力や、舞台・パフォーマンスの素晴らしさだけでなく、その世界を成り立たせるために捧げられる献身が本物だと信じられるからだと思う。
ステージに向けたあらゆる努力から普段の何気ない仕草に至るまで、「アイドルがいる美しい風景」を成立させるために、関係する人々全員が意識的に作り上げていくことでしか成立しない世界。
そこにはもちろん、その構造を理解したうえで声援を送るファンの存在も欠かせない。
アイドルシーンという虚実入り混じる世界は、美しさや楽しさを追求する嘘偽りない努力によって支えられていて、PRODUCE48で繰り広げられた光景も根幹の部分はその原則から逸脱するものではなかったという自分の考えは、種明かしがされた後でも変わらない。
守るべきもの
確かに、あのPRODUCEという番組が投票という行為に関して視聴者を欺いていたというのは事実。他にも批判されるべき点は多かった。
しかし一方で、製作陣への批判を更に広げて最終的に選ばれたメンバーにまで及ぼそうとするメディアを含む一部の言動は、明らかに一線を超えていた。
多くのアイドルと呼ばれる人達は、与えられた条件の下で全力を尽くすしかない一方的な存在だと思う。
曲に振り付けに衣装に髪型、上がるべき舞台そして何よりデビューの可否など、自身を取り巻く要素と環境を自由に選べるような立場にはない。
自分に光が当たる時を待ちながら、とにかく努力と我慢を続けるしかないのがアイドルと呼ばれる人々であり、何より100名近いプデュの参加者はその宿命をとても分かりやすく体現していた。
権限を持つ者が不正を糾弾されて責任を問われることは当然だとしても、ひたすら選ばれるのを待つしかないアイドルという人々を、不当に選ばれたという理由で糾弾するのは、彼女達が置かれた現実を無視するあまりに乱暴な態度だった。
嵐のような混乱のあと、最終的に番組の責任者は罪を問われ、製作会社であるCJENMは関連する利益を放棄することで自らの責任を認め、そしてIZONEは舞台へと戻った。
これは守るべきものを守った、妥当な事態収拾の仕方だったと思う。
もしアイドルが本人の責任でもなく公然と名誉を奪われるようなことが起こっていたら、話はひとつのオーディション番組が起こした不祥事という枠を超えて、KPopシーン全体にとっての消えない汚点となっていたかもしれない。
上記の解決策が提示された時の韓国メディアの反応は冷淡なものだったけれど、過熱する一部意見に惑わされずに関係者が示した冷静な判断が守ったものは大きかったと、個人的には思っている。
「FIESTA」
当初の予定から遅れる事3か月、ようやく日の目を見ることになった「FIESTA」のステージは、逆境からの再起という劇的な展開によって高められた期待にも応えて見せる完成度だった。
「Bloom*iz」の初動35万枚突破やメロンチャート一位という成果はもちろん素晴らしいけれど、個人的には12名が誰一人欠けることなく舞台に立つのを見ることが出来た瞬間、それまでの辛抱が完全に報われたと感じた。
そしてメンバーの成長が目に見えて感じられるパフォーマンスは、あの空白期間を過ごした後では、より強く迫って来るものがあった。
デビュー曲「ラヴィアンローズ」の優雅な旋律に乗せた鷹揚とした振り付けは、今に至る「女神コンセプト」とも呼ばれるIZONEの美しさを象徴していたけれど、一方ではあの時点でのメンバー全員のダンススキルを平均的に考えた上で編み出された、現実的な妥協という面もあったと思う。
しかし「ヴィオレッタ」で確かな変化を見せた後の今作「FIESTA」では、あの疾風のようなリズムに全く後れを取ることなく全員が果敢に踊りきるという勇姿を見せた。
クライマックスでチェウォンさんを中心に11名が一斉に膝をつく圧倒的なシーンは、IZONEが成長の末に咲き誇った今を象徴するような、デビュー以来の「花三部作」を閉じるのに相応しい壮観だった。
こうしてIZONEは舞台へと戻って来た。
順調に音楽番組への出演を繰り返し、映像コンテンツもプライベートメールも復活。待ち望んでいた日常が戻って来たようにも思う。
しかしあの大混乱を経験した今、PRODUCEでの劇的な誕生から二年半の活動期間を経て美しく大団円を迎えるという当初のシナリオは修正を迫られている。
今回のアルバム「Bloom*iz」が三か月前に完成していた作品だということを考えると、まだ今後の展開については具体的に知られていることがなく、懸念が完全に消えたわけではない。
でもそんな不安を感じていると、改めて「FIESTA」が持つ特別な存在感を思わずにはいられない。
全てが順調だった3か月前と、グループの存続を脅かした大騒動から復活した現在という、異なる二つの時を併せ持つこの曲は、「長かった待ち時間は終わり」という歌詞で始まることなどから、まるでIZONEの運命を予見していたようだとファンの間で話題になった。
それと同じ意味で、自分は別の一節「私の心は太陽を飲み込んで、永遠に熱く沈まない」の歌詞がとても示唆的に思えて耳に残っている。
IZONEは、まさに大人気サバイバルオーディション番組「PRODUCE48」という太陽をその身に宿すことで、そのまばゆい輝きを約束された。
ところが、ある時までは祝福だったはずのその光が不意に呪いへと反転した時、その熱は自身を焼きかねない灼熱へと変わった。
しかし例えそれが恵みであれ災いであれ、PRODUCE出身という過去は変わらない。
そうした葛藤から逃げることなく、自分たちは与えられた時を輝き続けるという決意が、この歌詞には込められていると、私は感じた。
思えば太陽はいつだって空を目指し、誰もそれを阻むことは出来ない。だからIZONEはこれからも一番高い場所で輝き続ける。
「FIESTA」のステージを眺めていると、確かにそう思える。