先月11月18日、オーディション番組「PRODUCE」における順位操作対象者の実名公表というソウル高裁の思い切った行動が韓国メディアを揺り動かした。あれからしばらく経ち、事態はもう落ち着きを取り戻しつつある。芸能ニュースサイトは新しい話題を追い始め、アクセスランキングを賑わせる芸能人の名前は様変わりした。そして新アルバムの発売日が近付く中で、WIZONE界隈は静かな高揚感に包まれている。
そんな時に先日の出来事を振り返るのは寝た子を起こすようでもあるけれど、あの騒ぎの中でも思うことはあったのでブログに残しておきたい。
ここのところ自分は一連のプデュ騒動はもう峠を越して、事態はこのまま穏やかになんとなく移ってゆくものだと思い込んでいたので、あのニュースには驚き、それと同時に事態を不必要に刺激するかのような裁判所の独断への強い疑問を感じた。
でも衝撃が落ち着いた今になってみると、あの判決文にはそれなりの意味があったと思うようになった。騒動に巻き込まれた全員が、これから顔を上げて前に進むために必要な過程だったとも言い換えられるかもしれない。
振りまかれたイメージ
まず、裁判所が明らかにした事実の中で最も大きな注目を集めたのは、言うまでもなく番組PDによる順位操作の対象となった練習生の実名だった。大きな驚きと動揺をもたらしたこの発表は、再びIZONEへの風当たりを強くした。しかし同時にこの発表がグループの名誉を回復する新たな事実関係を明らかにしていたことには、あまり注目が集まらなかった。
思い出してみると、プデュの不正疑惑に基づく告発を受けて実際に捜査が始まっていた2019年の年末、「捜査過程で12名のメンバー全員がプロデューサー陣によって事前に決められていた」という驚くべきニュースが「事実として」一部メディアにより報じられた。
※媒体の実名を出しつつ、そのことに触れた記事。
こうした報道は、騒動の初期にグループを捏造や操作などの言葉と結びつけることにおいて大きな役割を果たし、今に至るまで負のイメージ形成に重要な方向付けを与えることになったように思う。
しかし今回裁判所が明らかにしたのは、そうした「事実」とは異なる内容だった。
プデュ48における操作は、全部で4回あった視聴者投票のうちの最後の1回における2名のみだったと、裁判所は認めた。この事実は同時に、その2人を含む最終回に残った20名は全員、確かに投票という名の視聴者からの支持によって最終ステージまで勝ち上がって来たことも意味している。
こうした真相が与える印象と、従来の歪められたの印象とのギャップは大きい。グループイメージに悪影響を与えた上記「報道」がほとんど誤報だったということが明らかになった今、果たしてこれまでのメディアの反応は適当なものだったのかという疑問が残る。
責任のありか
裁判所の判断でもう一つ重要だったのは加害者とそれ以外の人達がはっきりと区別されたことにあると思う。判決は操作によって順位を入れ替えられた参加者の双方についてその被害者性を認め、責められるべきは被告人のみであるということを明言した。
※そのような判決文引用の分量が多めの記事。
このことは、操作で不利益を被った2名の不遇をIZONEの犠牲によって解消しようとするかのような一部主張が、被害者の損失をもう一方の被害者の負担によって補おうとする不当なものであることを示している。
罪を償うべきは元プロデューサーであり、奪われた名誉を責任持って補填すべきは番組を制作したエムネットだということは何度でも強調されるべきだと思う。
でもこのように裁判所が明確に被害者と加害者を分けてみせたにも関わらず、その意図を汲み取れずに、あるいは無視して、実名公開という衝撃に身を任せてIZONEへの疑惑の眼差しを煽る意見が存在したのは残念だった。
憐みへの違和感
不正によって本来受けるはずだった栄誉を奪われた人達については、具体的な救済をエムネットが責任を持って主導していくことが期待されている。裁判所が事態をこの上なく明らかにしてしまった今、いつまでもアイドルの陰に隠れるなという声が高まるのも当然だと思う。
ただその一方、操作対象者に憐みや同情の視線を送ることで、一連の騒動における可哀想な被害者という登場人物を設定しようとするメディアの風潮には違和感を覚えた。
プデュが終わってそれなりの時間が経ち、それぞれが各自の環境で新たな挑戦や成長を繰り返し、今も自分だけの未来を思い描いているはず。そんな個々の境遇を思うことなく一瞬にして悲劇の主人公に祭り上げてしまうような態度は、結局は他人の人生をゴシップのひとつとして消費しようとするメディア特有の振る舞いにも見えてしまう。
※こうした風潮を作り出しかねない判決の問題点を指摘した記事。
裁判所による実名公開は、すでに新たな道を歩き始めている人々を改めて「プデュ被害者」という同情すべき過去のフレームに押し込める。果たしてその決断は彼・彼女達の芸能界での将来を前向きに考える上で本当に正しかったのか、という記事 https://t.co/A8iqJ3QMdD
— nmk (@kpopincat) 2020年11月19日
私は、今回明らかにされた事実は彼女や彼達の暴かれた傷を意味するのではなく、隠されていた勲章が見つかったのだと思いたい。それが彼女達の今とこれからを応援して背中を押すものであって欲しい。たとえ善意からであっても、前途ある人達に同情の視線を向けることで戻らない過去へとつなぎ留めておくことが正しいこととは思えない。
ニ年という現実の意味
そしてニ年という時間に関連して、もうひとつ思ったことがある。
私が一連の騒動とそれに対する韓国メディアの反応を見ていて感じたことに、プデュとIZONEをほとんど同一視することのおかしさというものがあった。
2018年8月31日に「PRODUCE48」の放送が終了し、その二か月後の10月29日にデビューして以降、IZONEは順調な音楽活動を通して多くのファンを獲得してきた。その事実はデビューアルバムの8万枚から4枚目のアルバムでの39万枚という、初動販売数の大幅な増加が示している。
自分自身、IZONEを支持することをはっきり決めたのはデビュー曲「ラヴィアンローズ」を聴いて以降だった。番組は一つのきっかけに過ぎなかった。いかにプデュの影響力が大きかったとはいえ、あくまでデビューメンバーを決めるという演出の一環だったという側面はもっと意識されてもいいはず。
例えばもしかしたら、プデュの放送終了後から実際のデビュー日までの二カ月の間で、誰かが何かのトラブルでデビューを辞退していたかもしれない。あるいはデビューしてからも何かの事情でメンバー脱退という事態もあり得た。その結果グループの人気が影響を受けるという可能性もあった。
つまり二年以上という時間を今の12名のIZONEで過ごしてきたことは決して当たり前のことではなく、メンバー含む様々な人達の熱意や努力、それぞれ違う動機やタイミングで集まって来た多くのファンの存在、更に色々なめぐり合わせといった、二年分の複雑な要素が絡み合った末に、IZONEを中心とした風景は今現在あるものになった。
にもかかわらず、そうした積み重ねに対する理解や敬意がメディアからはほとんど感じられず、かなり単純に、いまだに「PRODUCE48」イコール「IZONE」と直結させて状況を捉えてしまう。その乱暴なまでのシンプルさが事態を余計に混乱させていた気がする。
今回、裁判所による実名公開というひどく率直で不器用な正義の示し方と、それに対するメディアの素朴過ぎる反応は、改めてアイドルシーンという現象がとても複雑な要素から成り立っているものだということを改めて浮き彫りにしていたように思う。
最後に
今回裁判所の示した判決文の内容は、ここまで書いてきたようにIZONEに衝撃だけを与えて終わるものではなかった。真相を明らかにし、責められるべき人物と責任を取るべき主体が明確になった点は、皆が前に進むために必要な区切りになるとも感じた。
でも報道された判決文の中で、ひとつ明らかに賛成できない表現があった。それは今回の不正のために「プデュへの参加者全員が敗者になった」という箇所。
もう誰だったか忘れてしまったけれど、とある「PRODUCE」MCの方が大勢の練習生へ向けて「皆さんはここに居るだけですでに何かを勝ち取った人達です」と語りかけたことがあったと記憶している。
「PRODUCE」は誰が選ばれるか、だけの番組ではなかった。あの場所に集まった人達が見せた熱狂的で華麗なステージには、憐みや後ろめたさという言葉からは程遠い光景が広がっていて、そこでは確かに皆が勝者だった。
だからこそ私は事実が明らかになった今でも敗者や被害といった言葉を簡単に受け入れる気にはなれず、プデュに出演した全ての人達にはこれからも堂々と前を向いて歩く姿こそが相応しいと思っている。