「Girls Planet 999」、通称ガルプラが終わって一週間過ぎた。区切りとなる記事を書いてそれで終わりのつもりだったけど、時間が経つごとにガルプラはとにかく難しかった、という感覚が疲労感と共に残っているのに気付いた。参加者はみんな魅力的で、彼女達が彩ったステージも素晴らしかったはずなのにこの違和感は何なのか。その理由について、勢いで書いた前回記事の隙間を埋める意味も込めて、個人的に思い当たる節を書き残しておくことにした。
ガルプラに感じた難しさの理由は、日韓の参加者を集めて成功した「PRODUCE48」と比べると理解しやすくなる部分があるように思う。
プデュ48の時はスキルの韓国、魅力だけの日本という分かりやすいコントラストと、その二つが混じり合った時への期待感があって、それが見事にIZONEとして現実のものになった。宮脇咲良さんという理想的なアイコンにも恵まれて、全体として明確な物語を描き切ることが出来ていた。
でもガルプラはそうした分かりやすい構図を用意できなかった。韓日中という要素を前面に出して48の成功を追いかけようとしたことは一目瞭然なんだけれど、そこに存在したのは単に国籍が違うという事実だけ。あの時みたいに参加者の実力の差が国籍へ綺麗に紐付けられて、それが「日本人でもやれば出来る」みたいな、矢吹奈子さんが「Love Whisper」を歌ったあの時のようなカタルシスに繋がったわけではなかった。江崎ひかるさんは日本人だけど舞台慣れしていて実力派とみなされていたし、川口ゆりなさんも綺麗なだけじゃなくて歌も出来た。ましろさんなどは韓国で長い間練習生として過ごしてスキルを積み重ねてきた、事実上KPopの人だった。
国籍の違いが実力の差ではない。48の時を思い出せば日本人としては誇らしいはずの事実だけれど、それがガルプラだけの特別な物語を作ることには繋がらなかった。そして中国側も含めて参加者全員のスキルにあまり差が無いとなると、それは意思疎通の難しい普通のサバイバルオーディションになる。つまりこの時点で国籍と実力と魅力のアンバランスに基づいた48の成功とは異なる道を行くことになった。
では代わりに何か新しい成功の形を示せたかと言えば、それが少なくとも自分には伝わらなかった。番組を通して映し出された異文化間の葛藤なども予想の範囲内であり、国境を超えた連帯を目指したらしい「セル方式」も中途半端に終わった。ガルプラは国籍の異なる参加者を多数集めながら、それを番組独自の魅力として映し出せたかどうかは疑問を感じる。
全体の構造としてはそうでも、例えば個人同士の関係性で国籍を超えた絆を描き出すことが出来れば、韓日中から参加者を集めた意義を示せたのかもしれない。プデュ48の時にはそうした光景が見られて視聴者の共感を集めた。宮脇咲良&イチェヨンの二人はまさしくその象徴だった。
しかしここでもガルプラは成功しなかった。みんなの仲が悪かったというわけではない。韓日中メンバー同士でグループを組ませたり部屋を分けたりしたせいか、番組を通して国境を超えた交流はいくつも生まれていた。でもTOP9の顔ぶれを見れば分かるように、そうした過程は肝心の結果に反映されていないように見える。そしてその現実を象徴していたのがシャオリナの解体だったように思う。
シャオリナ、つまりシャオティン&川口ゆりなという中国と日本の美しい二人の組み合わせ。彼女達が隣り合う姿は当初、ガルプラにおける異文化交流を代表するアイコンとみなされていた。そのように周囲の出演者も、視聴者も感じていたはずだった。前述したプデュ48の二人を想像させることで、あの時と同じように番組そのものの成功まで約束してくれるような、幸福な予感を漂わせていた。ところが最終回、川口さんは落選してしまう。
韓国で放送された番組において日本と中国の二人の交流が人々の心を動かし、それが明確な結果に結びついていたら、つまりこれこそが「Girls Planet 999」の意義だったんだと、今ごろはっきり断言出来ていたかもしれない。その意味では、この離別こそガルプラが描こうとして出来なかった理想の存在を、その不在によって証明しているように思う。
韓日中という国籍の組み合わせを番組の魅力に繋げることが出来なかった。ただそれだけでなく、ガルプラは各参加者の背景事情が多様すぎたことが全体としての難しさに関係していたのではと推測している。
例えば48の時はプロ未満の練習生である韓国勢と、同じグループで活動してる現役アイドルの日本勢という説明だけで参加者のほぼ全員の背景を説明できた。元々「PRODUCE」シリーズ自体が練習生と呼ばれる人達の参加を前提としたプログラムだった。だから見てる側に特別の説明は不要で、全員が横一線でデビューを目指す分かりやすい物語を共有できた。
ガルプラは違った。普通の練習生と、同じ練習生身分だけどデビュー寸前までいった有名人。現役で芸能活動をしている人。サバイバルオーディションを渡り歩いてきた苦労人。元アイドルに、デビューはしたけど上手くいってない参加者もいれば、比較的順調なキャリアを送ってきたはずの現役アイドルまで。これだけ多様な背景を持つ人が集まっているのに、更にそこへ国籍の違いまで加わる。上述の通りうまく生かせなかった三つの国籍という要素が、ここでは話を余計に複雑化させる原因に変わった。
繰り返しになるけど、参加者が多いにもかかわらずプデュがあの形で成立していたのは、練習生という肩書のおかげでみんな似通った過去と現在を持つ人達だという理解を可能にしたからだった。そして番組の始まりがそのまま彼・彼女達の物語の始まりであってそれ以上の説明が要らない。だから視聴者は放送開始と同時に感情移入できる。
しかしガルプラはそれぞれ「前回の続き」から話が始まって極端な話し99通りの物語を提示してきた。デビューという目的は同じでもこれまでの過去が多様過ぎて、その人のは池について積極的に理解して思い出そうとしなければ分からない。しかもその経歴をガルプラが番組中で十分に説明できたわけでもない。
2017年に韓国KBSが放送した「THE UNIT」という、挫折した芸能キャリアを持つ人だけが集まって再起を目指すサバイバルオーディションがあった。今見ると部分的にガルプラが試みたことと重なるこのプログラムは、挫折からの復活という、過去から未来に至る大きな道筋を出演者と視聴者が共有していた。でもガルプラの国を跨ぐほどに多様過ぎる参加者の顔ぶれでは、そういう分かりやすい物語を語れない。
もし参加者が持つ様々な背景をガルプラという限られた時間や手間の枠内で整理するのが難しいというのなら、それが出来る程度にまで最初から参加人数を減らしておくべきだった。100名近い人数からなる「PRODUCE」があの放送規模と回数で物語を完成させることが出来たのは、参加者全員がある程度均質な背景を共有出来ているために、視聴者に対してそれぞれの細かい説明を省略できたことが大きな理由だったと考える。でもここまで書いてきた通り、ガルプラに同じことは無理だった。
今思えばガルプラは「THE UNIT」の要素と、大規模サバイバルである「PRODUCE」の枠組み、あと異文化交流という挑戦にプデュ48再現の夢を見て、それらをとりあえずひとまとめにしたのだと思う。それぞれの要素が具体的にどんな効果を期待されてプログラムに組み込まれていたのかという意味を理解せずに。
最後に思い出したことがある。
中国人参加者であるウェンジャさんの「私はこんなところで脱落したくない」という率直な決意表明の瞬間は、サバイバルに参加した人間の偽りない心情を真っ直ぐに表現したものとして、ガルプラを代表するハイライトの一つだったと思う。そしてこの場面、はるばる中国から韓国へ来てたまに自分の年齢を気にしたりもする彼女の、その言葉の向かう先が韓国人の少女であるキムセインさんだったことを知れば、その境遇の違いが彼女の切迫感を際立たせていることに気付く。
多様な背景という条件は、このような描かれ方によって屈指のドラマへ繋がる可能性が十分にあった。生まれた国も育った時間も歩いてきた道も全く異なる人々が2021年の秋、コロナ禍のソウルで同じ舞台に立つことになった事実こそがすでに一つの物語になっていた。あとは丁寧に彼女達が舞台へと至る過程を、その葛藤も含めて映し出していれば、その先にプデュとは異なる新しい成功の形があったのではと、今更ながらに想像する。