先日4月1日、「ヴィオレッタ」で華々しく初のカムバックを遂げたIZ*ONE。
セカンドアルバムである「HEART*IZ」は前作同様に多彩で優れた楽曲が多く含まれているだけでなく、元ワナワンのイデフィが作詞作曲した「airplane」や、ミンジュ&仁美が作詞に参加した「really like you」など、製作者の面からも注目される作品となっています。
そうした作品群の中にあって少し異彩を放っているのが「猫になりたい」と「ご機嫌サヨナラ」という、先の日本デビュー盤に収録されていた二曲です。「HEART*IZ」にはこれらの曲が韓国語版として装いを新たにして収録されています。
もともと日本デビューにおけるタイトル曲よりも好評を得ていた気がしないでもないこの二曲でしたが、言葉の意味がすぐには分からない韓国語として歌い直される事で、その優れたメロディに集中できる仕上がりなっていて、個人的には新曲群と比べても遜色のないインパクトを感じてます。
そしてこの二曲の歌詞を韓国語に移す役割を担ったのが他でもない、IZ*ONEメンバーであるミンジュさん(猫になりたい)とチェヨンさん(ご機嫌サヨナラ)。
メンバーが歌詞を手がけるという事でクレジット発表の時から注目してたこの二曲。この記事ではとりあえず「猫になりたい」の方について触れてみたいと思います。
ミンジュさんといえばその美貌とは裏腹に、プデュ48の放送を通して見せた弱気な姿や、アイズワンで明らかになったドジっ子属性、更には覚えなければならない振り付けが多すぎてトレーニング中に泣き出してしまう(&それをメンバーにからかわれる)といった愉快なエピソードを持つ愛されキャラです。
「ヴィオレッタ」においては、意外にも凛としたラップパートを披露して鮮烈な印象を残した彼女が、単独で翻案に挑んだ 「猫になりたい」において、自分の言葉で世界をどのように表現するのか、という所に興味がありました。
その感想について結論から言うと、日本語詞との細かなニュアンスの違いを探すくらいの気持ちでいた自分はかなり意表を突かれました。
というのも、驚いたことに「猫になりたい」の日本語歌詞と韓国語歌詞、ほとんど共通する部分がありません。コーラス部分から何から全変更されています。私は訳し始めてから翻訳と翻案の意味を混同していたことに気付きました。
ミンジュさんは単純に日本語歌詞を訳したわけではなく、「猫になりたい」というタイトルと楽曲を元に彼女なりの解釈を創造し、その結果生まれたのがこの韓国語版だとも言えます。
その大胆な変更については、韓国人を含めた外国の人達からは「日本語版のほうが良かった」というような意見もあるようです。
しかしこうした意見は日本人の自分からするととても不思議なものに聞こえました。私は断然韓国語版のほうが気に入っています。意味としても、音としても。
むしろ私はミンジュさんの翻案を経ることで日本語版には無かった新たな魅力が加わったと思っていて、特に上記批判の中で見られた「歌詞にほとんど猫出てこないし、猫関係ないじゃん」的な意見に至っては一体どこを聞いているのかなという気さえします。
確かに日本語版「猫になりたい(作詞:秋元康 作曲:Shintaro Fujiwara)」ではタイトルに忠実すぎるくらい、全編通して分かりやすく猫の仕草に関わる歌詞で占められていました。
気ままに振舞う異性を猫の姿に喩えることで、その魅力を表現しようとしているのだと思われる歌詞。こうした着眼点が韓国の人にはオリジナリティーを感じられたようで、どこか寂しげなメロディと共にこの点を評価する意見も聞かれます。
最初から最後まで徹底的に猫の描写に終始する歌詞は、全体的に独善的でこじんまりとしていて、その辺がいかにも猫らしいという意味では確かに作品として成功していると思います。
ですが当然、その逆効果そして歌詞全体から深みや広がり、更にはメッセージ性のようなものは失われることになる。
これは元々意図していないのだから当然の事ではありますが、しかしこの点は後述するミンジュ版とは大きく異なる点です。
それにいくら可愛いからと言っても異性を小動物に喩えたように読める歌詞は、日本語版の作詞家の経歴を思い返すと、とても素直に受け入れる気にはならないという事も付け加えておきたいです。
続いてミンジュ版を引用してみます。
まず冒頭の歌詞から。ここはコーラスパートでもあります。ちなみに私は韓国語初心者なので、残念ながら翻訳の正確さについては保証できません。
わたしは今のままが好き
窓の外の視線なんて必要ない
この瞬間わたしが望む事を夢見るの
私の中にもっと私を知りたい
一目瞭然の特徴として、元の歌詞では出てきた猫という言葉がありません。これは冒頭部分に限った特徴ではなく、全編通してほとんど見当たらない。途中で「i wanna be a cat」という英語のフレーズがわずかに挟まれるのみです。
曲を通して繰り返されるこのコーラスからは、自己嫌悪などとは無縁な猫の生き様を想像させる、自愛についてのメッセージが読み取れます。つまりタイトルと歌詞の内容は確かに通じ合っている。
直接に猫という言葉を使わないことで日本語版と差別化を図り、ミンジュさんが自分なりの表現を目指した事がうかがえます。
温かなソファの上に降り注ぐ朝の日差し
あったかい布団の中でずっとゴロゴロしてる
静かに流れる、こののんびりとした時間のなかで
わたしは毎日新しい夢を見る
静かに流れる、この穏やかな日常
今この時間が、わたしは好き
過ぎ去ったこの時間は
もう二度とは戻ってこない
誰も心配しないで
今この瞬間はただ君にだけ
このように直接的な言葉こそ出てきませんが、ここでも歌詞から感じられるイメージは陽光の下で丸くなった猫を思わせる、暖かい光景です。更にはどこか幻想的な広がりを感じさせる予感もあります。
猫に関する直接的な表現は避けながらも猫に通じるイメージを援用しながら人を勇気づけ、自分を大切にしようと呼びかけるような歌詞は、曲全体で表現されるミンジュ版の大きな特徴となっています。
加えてここでの最後のクラ&ユリパートは、日本語曲には見当たらないスケール感に溢れていて、ボーカル的にも2つのバージョンを大きく分けるポイントにもなっていると感じました。
優しいメロディに穏やかで前向きな言葉を添えながら、 韓国語版「猫になりたい」は最後まで聴き手に寄り添う暖かい歌詞に溢れています。
君のどんな姿でも好き
窓の外の視線より君が大切
何より大事なのは君だから
ただ君の願う通りに
人間が気ままな猫の姿を通して見ている理想。それはおそらく、ミンジュさんが描いたようにありのままの自分を愛し、疑わないこと。周囲の不確かな視線に惑わされることなどなく、自分を見失わない姿勢だと思います。
思えばこれは、BTSとユニセフとのLOVE YOURSELFキャンペーンの一環としてリーダーであるRMが国連本部でのスピーチで語っていた、「自分を愛し、自分を見つめ、自分を語って下さい」というメッセージとも共通しているように感じます。
広く社会からであれ、身近な人からであれ、人間は物心ついてから様々な「こうあるべき」という物差しを外側からあてがわれ、そこで示される理想像と本来の自身の姿とのギャップに苦しめられ、やがてあべこべに真実の自分を卑下し、嫌う事を覚えるのだと思います。
たとえ努力の末にそのような外部からの期待に沿う社会的・経済的な成功を手にする事が出来たとしても、それはあくまで自分の幻を満足させただけであって、自己嫌悪の解決にはならない。本人は成功や安定を手にしたつもりでいるのに、一向に消えない不安にさいなまれ続ける。
自己嫌悪というものは人が持って生まれるものではなく、後から刻印される呪いのようなもの。それは本来の自分を知り、本当の自分を好きになる事でしか治癒しない。
世の中にはそのことに気付いている人達が居て、上に挙げたRMのメッセージや今回の「猫になりたい」は、「自分」を取り戻そうともがく人々の背中にそっと手を添えるような特徴をもっているように感じました。
ミンジュさんが翻案を手がけた「猫になりたい」は、日本語版と同様に猫という存在をモチーフにしつつも、自分を肯定し、愛そうというテーマを示すことで結果的に日本語版とは大きく異なる意義を持つことに成功した作品だと思います。
日本語版と韓国語版、ふたつの「猫になりたい」。上でも書いたように、私は単純に音として聞いただけでも韓国語版の方が好きですが、それに加えて歌詞の意味を自分なりに理解した上で言えば、「私」というものを巡る葛藤に対して前向きで時代的なメッセージを穏やかに盛り込んだミンジュ版の方を強く推したい。
そして今回のミンジュさんによる翻案は、1人の女子アイドルの自己表現としても、これからの可能性を感じさせる大きな広がりを持つものだとも感じました。