夢から目覚めた主人公は決意と共に窓を開け、太陽が照らす空の下、自分という季節の到来を告げる祝祭の中へと、花咲く道を歩き出す。
IZONEのメンバーである宮脇さん自身が作詞を手掛けた「FIESTA_Japanese Ver.」は、韓国語で歌われた原曲が持つイメージだけでなく重要な歌詞の意味を汲みながら、一人の視線を強く意識させる物語のように再構成してみせ、なおかつ音としての日本語を原曲に馴染ませるという難しい要求にも鮮やかに応えた、翻案の巧みさと共に作詞として優れた創作表現でもありました。
韓国で「FIESTA」が発表された当時、偶然にもその歌詞内容がIZONEの活動休止から復帰へ至る苦しい時期を予見していたかのようだと噂されていました。そして今回の日本語歌詞並びに宮脇さんのラジオ番組での発言などから、彼女もその解釈を取ったということは明らかだと思われます。
つまりこれで「FIESTA」はデビュー曲「ラヴィアンローズ」が誕生を意味したのと同じように、IZONEとWIZONEにとって復活を象徴するアンセムになった。ただ翻案を成功させるだけでなく、原曲に新たな価値を付与したという点でも、今回の宮脇Ver.はWIZONEにとって大きな意味を持つことになったと思います。
しかし同時に、その素晴らしさは再び個人的な葛藤を意識させることになりました。
私は、もともと韓国で発表された原曲を日本市場向けに日本語で歌い直す、いわゆる日本語版KPopについて、韓国語で歌われることを前提に完成した楽曲の一体性を崩してしまうという理由で反対していました。そのことをブログに書いたこともあります。
そんな自分が今回の素晴らしい結果をどう考えるべきか、迷いました。従来の批判的な考えを改めるべきなのかどうか。今でも自分が持っていた違和感は理由のある事だと思っているし、しかし一方で宮脇さんによる翻案が優れているのは事実。
私は「FIESTA」宮脇Ver.に触発されて、今までは意識的に避けてきた他のグループの日本語訳されたタイトル曲を中心に聴き直してみることにしました。すると、うまくいっていると感じられる曲もいくつか見つけることが出来た。例えば、おまごる「Nonstop」やアイドゥル「Oh my god」などは大健闘していると感じます。
しかし、やはりほとんどの曲が違和感を隠しきれていない。あるいは音としての日本語をうまく原曲に添わせることが出来ていても、韓国語歌詞の詩的な表現がかなり単純化されて、味気ない日本語になっていたりする。
結論から言うと、やはりKPop日本語版に対する懸念が消えることはありませんでした。というより「FIESTA」宮脇Ver.は、今回のように文句のつけようもなく素晴らしい結果を出されても解決されることのない、翻訳・翻案の出来映えとは関係のない問題があることを改めて自覚させてくれたと言うべきかもしれない。
「FIESTA」日本語版は、原曲が韓国語で歌われるものとして作られたという制約の中で最高の答えを出しました。しかし、そもそもこうして制約の中で結果を出させようとする構造自体がおかしいと思います。歌詞を翻訳&翻案することによる原曲との完成度の差、違和感の大小など、日本語版は原曲との関係で相対的な評価をされてしまうことを避けられない。つまり自分の好きな曲が勝手に二種類に分かれて互いに比較の対象になってしまう。
今回の「FIESTA」は良かった。でもひょっとしたらそれほどよくないという可能性だってあったし、実際に前回の「幻想童話」日本語版はサビの「優雅に」の部分などに違和感が残ってしまった。でもこれは二曲を並び立たせる多言語版という手法を製作側が用いた以上は仕方のないこと。
やはりファンとしては、自分の好きな曲はいつだって唯一の存在であって欲しいと思う。
更に言えば、私にとって韓国語の歌を聴くという事、それは完全には意味が分からないながらも歌詞の感触を通して音楽の向こうに広がる、異なる文化を生きる人達のいる世界を想像するということです。差異を認識しながら、同時に共通する感情を発見して心を動かされる、そういう体験です。それを相手に伝わりやすいようにと言葉だけ翻訳して置き換えてしまう事によって失われるものが確実にあると思います。
それに自身の感情を素直に表現できる母国語で存分に歌い上げることこそが歌手としての聴き手に対する誠意ではないかとも思います。英語でも韓国語でもなんでも、たとえ言葉が通じなくても聴衆の心に訴えようとする歌手の真摯な姿は言語を超えて相手に感動を届けることが出来るのではないでしょうか。
日本語版をめぐるビジネス的な動機は理解できます。新しくアルバム一枚分の曲を新規に用意する手間を省き、既存曲に翻訳を施すことで量を用意しつつ、すでに本国アルバムを手にしているだろう日本のファンに向けて新たに販売することが出来る。
でも例えば、こうしたビジネス上の現実的な要求と上記の懸念、この二つを上手く調整出来ているグループとしてセブチを挙げておきたい。
彼らはほとんどタイトル曲を日本語化することなく、日本向けオリジナル曲を中心に、過去の韓国アルバム収録曲から選んだ曲を日本語にして組み合わせる形で日本アルバムを発表している。そしてここも重要なところですが、ライブのセトリも韓国語Ver.がメインで、アクセントとしてたまに日本語曲を披露する。
タイトル曲に対するファンの特別な想いを混乱させることなく、オリジナル曲を通してファンの期待に応えるというこの手法が、私には理想的なものに思えます。
宮脇さんの手による「FIESTA」が素晴らしい結果だったことは繰り返し強調しておきたいし、そこには敬意を払いたい。でもそのことが日本語版KPopに対するわだかまりを消してくれるわけではなかったことはここまで書いた通りです。
あと最後に、IZONE日本1stアルバムにおける歌詞との関係で言うと、アルバムタイトル曲の作詞をこそ宮脇&矢吹&本田の3名に任せたらよかったのではとも思います。彼女達は既にこれまでIZONEの活動において作詞の出来ることを証明してきたので、これは全く突飛な話ではなく、むしろ期待される展開でもあったはず。
特に日本で活躍していたメンバーの作詞した作品がタイトル曲となったアルバムが国内のファンに届けられていたら、それは日本を離れていた2年という時間の意味を象徴する特別なものになったに違いない。そうなればあまり多くを期待できなかったIZONEの日本活動にようやく意味が生まれていたかもしれないのに、と思いました。